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被爆体験「ああ、長崎」

日田市    坂本  長一郎  さん (昭和5年生)

昭和20年3月、戦争は本土爆撃とだんだん激しくなるところ、14歳だった私は当時の夜明国民学校高等科を卒業した。しそて、4月には、山育ちの私も長崎市の三菱造船所に養成工として就職した。地元からは、私を含めて4人の仲間が遠い町へとやって来た。その日、三菱会館にて入社式を済ませると、その場で真新しい戦闘帽(三菱の帽章は竹製だった)と、グリーンの上下作業服、ゲートル、上靴を貰い、複雑な思いを抑え、この戦争に勝たねばならないという使命感に燃え、目まぐるしく変わったその日を終えた。

次の朝から、ラッパを吹きつつ二列縦隊で工場へと行進した。2日間は教育期間、その後の4日間は実習だった。私達の寮は飽の浦町にある飽の浦寮といい、300人近くの人々が居たが、厳しく軍隊式で、上級生はちょっとしたことで私達をよく殴った。食事は毎日が大豆粕のご飯で、菓子などはぜんぜんなかった。ただ1回だけ郷里の先輩からもらったことがあり、その時の嬉しさは今も忘れない。

その後、空襲警報、敵機襲来の回数は日増しに多くなり、毎日が気持ちの落ち着かない生活であった。防空壕の中から幾度となく戦闘機の空中戦を恐怖心をもって見た。そんなある時、戦闘機の爆音とともに爆弾が目の前に落ちた。あやうく命拾いはしたが、後で考えると、原爆よりその時の方が恐かった。

1945年、夏のとっても暑い日、8月9日午前11時過ぎ、いつもと同じ工場内訓練所で皆と一緒に作業していたら、「ゴゥー」と遠くの方で地響きに似た大きな音がした。教官が作業台の下に潜れと大声で叫び、皆が台の下に潜った。その途端、熱風が吹き、工場のトタンが落ちる音、窓ガラスが割れる音が工場内に響いた。教官の指示で近くの防空壕に避難したが、防空壕の中は必死で逃げ込んだ人々でいっぱいで、半袖で作業していた人などは腕に怪我をして血を流していた。しばらくして外の様子を窺ってみると、長崎港の対岸にある街のほうは黒煙がもくもくと立ち込めて燃えていた。工場から1.5キロぐらい離れた寮に帰ってみると、窓ガラスは爆風で木端微塵に割れ、室内も荒れて寝るところもなかった。それで、夜は寮から2.5キロほどの海岸の松林に、先輩と一緒に蚊帳を持って行き野宿した。夜の帳が降りるとき、遠くの長崎の街が、どす黒い煙と真っ赤な炎をあげて燃え盛っていた。私は、浦上の原爆投下中心地から3.5キロ離れた工場の建物内で被爆したので、なんとか無事だったのだろう。そう思いつつ、私自身に、いや世界的にも大変ないちにちが終わろうとしていた。

次の日、工場内の広場で被爆で死んだ人たちを集めて焼いているのを見て、ただ驚きと哀れで胸がいっぱいであった。1945年8月15日、焼けて何もなくなった長崎の街を望む工場の外で、ラジオからの昭和天皇の御言葉を聞き、戦争が終わったことを知った。私は早く故郷へ帰りたいと思っていた。長崎駅から帰るには証明書がいるとのことで、私は上級生にそれを書いてもらい帰ることができるようになった。8月18日、駅に行く船で長崎湾を渡ろうとした時、海の中にも被爆者の死骸がたくさん浮かんでいた。船頭さんが竿で死体を掻き分けながらなんとか長崎駅に着き人々がごったかえす中、何もない駅からぎゅうぎゅうづめの汽車に乗ったので、荒れ果てた長崎市内を見ることはなかった。久留米近くの鉄橋は爆撃のため不通になっていたので歩いて渡り、夜遅くやっと郷里の夜明に辿り着いた。

後日、新聞で原子爆弾のことを知った。8月6日には広島にも同じ爆弾が落ちたこと、被爆者は検診が必要であることも知った。病院で血液検査を受けたが、幸いにも異常がなくてほっとした。現在は被爆者手帳を持ち年2回の検診を受けている。安心して働くことができ、また定年まで無事に勤められた事を感謝している。

たくさんの死者を出した長崎は、私にとって社会生活第一歩の街であり、大切な第二の郷里だと思っている。被爆都市として世界中から注目されている長崎が、これからも世界の平和都市としてますます発展していって欲しいものである。これからの核兵器の廃絶を願い、また苦しんでいる被爆者の願いも込めて、ここにこれを書き残す。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。