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被爆体験「被爆国日本が世界平和のリーダーシップを」

大分市    K  ・  Y  さん (大正12年生)

空襲警報が解除になって警戒警報になったので、みんなそれぞれに仕事をしていた。11時少し前に、三菱兵器工場でトラックから自転車をおろし、事務所に帰る途中だった。工場と洗面所にはさまれた通路を通っていたら、突然雷と稲光を一緒にしたようなものが、ピカ、ピカッ、ガーッときた。

私は、そのまま7、8メートル吹きとばされたが、本能的に何かにもぐりこんだ。それは、地上に落ちて爆発するものではなく、もの凄い、熱風と風と光が突然おそってきたような感じだった。爆心地から1.5キロ離れていたせいか、即死したい人は少なかったが、体にガラスの破片がささったり、やけどを負った人が多かった。

私はふしぎと助かり、その晩は防空壕の中で150人くらいの人たちと一夜を過ごした。防空壕の中では、うめき声や「水、水・・・」と言う声が聞こえてくる。「水を飲んだら死ぬぞ」と言うけれども、「死んでもいいから・・・」と、水を欲しがった。

工場の事務所からオキシドールを持ち出して、助かった人につけてやったが、そのかいもなく死んでいた。それから約一週間ほど街は燃え続けていた。

4、5日経って、私が下宿していた山里町(爆心地付近)に帰ってみたら、みわたす限り瓦礫の山で、死の街と化していた。最初の二十日間ぐらいは、佐世保方面から軍隊が来て、遺体をトラックで運んでいった。しかし、牛や馬などは最後まで放置されていた。

10日ぐらい経ったある日、友達と再会した。お互い無事を喜び合ったが、彼は髪が抜け、口がただれ、蝿がとまっても追い払うこともできないくらい衰弱しており一週間もたたないうちに亡くなった。生き残っていた人たちでも、その後、彼のような亡くなり方をした人が非常に多かった。即死は20万人ぐらいだったが、その後15万人ぐらいの人が、短い間に苦しみながら亡くなっていった。

原爆が落ちた時、これで戦争に負けたと感じた。その後は、まったく気力が衰えて、戦う気力がなくなってしまった

勤務していた造船所で残務整理をした後、9月に大分に戻った。家族は長崎に新型爆弾が落ちたという話を聞いて心配になり、久留米まで列車で迎えに行ったが、その先は大混乱で行けなかったと、後で聞いた。

帰宅すると両親は私の無事を喜んでくれた。当時は、原爆の後遺症についての知識をまわりの誰も持っていなかったし、戦後の大混乱に誰もが大変で、私の体のことをことさら気にする人はいなかった。実際、私自身、支障のある症状はほとんどなく、普通の生活ができた。その後1年くらい経ってから、息がしにくいなぁと時折思うことがあり、久留米医大に行ったらと勧めてくれる人もあったが、混乱の中の忙しさもあり、そのままになっていた。被爆体験を夢に見る事は、その直後によくあった。

戦後何年かの後、結婚した。妻には被爆したことを告げたが、特に強い覚悟をして打ち明けたというわけでもなかった。今と違って、その頃は原爆の後遺症の知識、特に遺伝子への影響など誰も知らず、別段たいしたことと思わずに話した。その後も普通の人と変わらず健康に過ごしてきた。退職後、検診に行ったら、初期癌と言われたが、癌と言えば言えるその程度のもので、歳をとれば誰にもあることと、特に気にはしていない。皆と同じように旅行もしたし、ずっと健康だった。

1951年にサンフランシスコ条約が結ばれ、次第に戦争中に隠されていた情報が流されはじめ、だまされていたという腹立たしい感情が初めて私に生まれた。戦争中は信じきっていたのだ。私たちの世代は、軍人勅諭でも、五箇条の御誓文でも全部暗記している。教育で毎日毎日たたき込まれると、そういう精神がいつのまにかできる。普通に考えると間違っていることを、正しいと思い込まされるのだ。先生様々だったから、そうやってたたきこまれた思想を変えることは難しい。戦争は国と国との関係で始まるものだから、私たちは政治の動向や、政府が正しい方向に向かっているかどうか注意して見ていかなければならない。そして思想教育の恐ろしさをも訴えていかなければならない。被爆国日本は、真の平和主義を掲げ、実行し、世界平和のリーダーシップをとって行くべき国であると思う。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。