Home > 核兵器・被爆・原発 > 被爆体験「地獄と化した長崎」

 

被爆体験「地獄と化した長崎」

臼杵市    寺尾 行功  さん (昭和2年生)

昭和20年8月9日、私は長崎三菱兵器製作所大橋工場で被爆した。

その日は朝からよく晴れていた。いつものように出勤し、暑いのですぐ半袖シャツ一枚になった。人絹のビロビロシャツである。8時の始業合図が鳴って間もなくだったと思う。まるで皆が出勤してくるのを待っていたかのように空襲警報が鳴り響いた。学徒動員で手伝いに来ていた女生徒は、指導者に引率されてあちこちの林や丘の陰に隠れてしまった。

私は3階の部屋で窓に暗幕を下し外の様子を窺っていたが、爆音などは聞こえなかった。さっきの警報は間違えだったのかなと思っていると、空襲警報が解除になった。即ち警戒警報になったのである。それを機に避難していた人たちが工場に戻り、それぞれの仕事にかかった。もうすぐ昼食だなあと思いながら図板に向かってすぐである。遠くに「ブーン」という爆音が聞こえ、「あれっ」と思った瞬間、ピカッと光り、熱風を頬に感じた。反射的に机の下にもぐり込んだ。その直後、「ゴー」という音がしたと思ったら、今まで明るかった部屋が真っ暗になってしまった。なんと、漆喰の天井が部屋一杯に落ちていたのである。幸い私は窓際にいたので天井を押し上げて這い上がり、外に逃げ出した。

外に出て、また驚いた。それまでキラキラ輝いていた夏の太陽はなく、周りは夕方のように薄暗くなっていた。見渡す限りの家はほとんどつぶれており、あちこちで煙が上がり始めていたが、すぐに火災となり、次々と燃えていった。これはもの凄く大量の爆弾と焼夷弾を一時に落とされたのではないかと、私はただ驚くばかりだった。これが「原子爆弾」というものだと聞いたのは、それから5、6日目だったと思う。

それから私は山際に避難した。そこには既に数人の人がきていた。気が抜けたようになって、今迄いた工場の方を振り返って驚いた。3階の屋上には焼夷弾を落とされたときの容易に水を溜めていたのだが、振動で屋上部分の壁に亀裂が入り、その隙間から水が噴き出しており、この場にふさわしい言葉ではないかもしれないが、その眺めは壮観だった。

救急列車が来るというので、線路まで行ってみた。線路の土手は、怪我をした人達で溢れていた。暗くなったので工場に引き返し、防空壕に入って寝た。地獄のような一日を思い浮かべ、なかなか眠れなかった。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。