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被爆体験「健康に不安な毎日」

佐伯市    田口 逸男  さん (昭和8年生)

私は長崎の三菱造船所近くの飽ノ浦というところで被爆した。その時私は小学校5年生だった。

その日、空襲警報が解除になったので、防空壕から出て昼食を食べに帰ろうとしていた時、B29が高度の高いところを通って、落下傘みたいなものが落ちてきた。私は子供だったので、「アメリカさんが何かくれるんやわ」と思い見上げていると、ピカッと光った。瞬間、目と耳をふさいだのだが、4〜5メートル飛ばされていた。

怪我はなかったので、4、5人で稲佐橋まで様子を見に行った。途中、稲佐川で伝馬船に乗った消防の人が、手かぎで死体を寄せてロープにつなぎ運んでいるのを見た。稲佐橋のたもとでは、鍛冶屋さんが家の下敷きになって呻いていたが、子供の力ではどうしようもなかった。

その日の夜は、火の手をめがけて焼夷弾が降ってきた。

翌日は、何があるかわからないから町の方には行くなと言われたので、前日一緒に町に行った宮田シズオさんのところに行った。ところがシズオさんは防空壕のそばに倒れていて、近寄ってみると、既に死んでいた。前の日に同じ道を歩いたのに、翌日一人は死に、一人は生きている。ちょっとしたことで人間どうなるか分からないと思った。

その後、近くの川で死体を焼いていたが、その灰が家まで飛んできた。私は変形した薩摩芋も食べた。

大分県の佐伯市に移住したのは25歳くらいの時だった。それから30年以上経ったが、いまだに長崎の風景を見ると被爆した時のことを思い出す。

現在も、いつ病気になるか分からないという不安な毎日が続いている。子供は自分が被爆二世だということは知っている。しかし、健康診断には行ってないようだ。

最後に言っておきたい。戦争は、ありとあらゆる面で悪い。二度と起こしてはならない。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。