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被爆体験「ケロイド、体調不良、原爆との闘いは今も続く」

大分市    S ・ T  さん (大正11年生)

私は昭和20年兵役に召集され、長崎の針尾海兵団に入隊しました。当時、長崎は要塞のようなものでした。私は浦上町の三菱兵器製作所の警備に配属され、第3砲台にいました。その場所は爆心地から1,000メートル位の処でした。

その時は空襲警報も何もなかったので、砲台の壁に寄り掛かって休息をしていました。アッという瞬間に、上から押さえつけられるような火の玉と、轟音が同時に押し寄せてきました。「やられた!」と思ったと同時に、左半身が大火傷を負い、顔半分の皮膚がベロンとはげ落ちた状態で、防空壕に逃げ込みました。壕の中の同僚が「お前、肩が燃えているぞ」と言って火を消してくれました。

後から聞いた話ですが、第1、第2砲台は爆心地から近かった上に、常に砲弾を込めていたため、砲台も爆発して全滅したそうです。

それから、私は自分で道の尾の駅まで歩き、そこから汽車で諫早の病院に向かいました。汽車の中は上半身裸で、焼けただれた人達が、座席の下や通路にゴロゴロとしている状態で、誰が誰とも見分けがつかない有様でした。

病院に着いて、その日の夜中に兵隊が来て、「お前、家に帰れるか」と聞かれました。傷は大変重かったのですが、帰りたい一心だったので「はい」と答えました。そのまま8月14日の朝除隊になり、汽車で長崎から福岡経由で帰りました。

大分に帰ってから、臼杵の病院で治療しました。そこで串で傷のカサブタをかき落としたりする荒治療で、生きている心地はせず、死ぬものと思っていましたが、どうやら命は取り留めました。しかし火傷跡のケロイドがひどく、3年位は家から外に出られませんでした。5〜6年は、体の調子が悪く大変でした。現在もいろいろ病気が多く、風邪をひきやすく、入退院を繰り返しています。

私たちは嫌な戦争を経験してきました。これからの若い人達への願いは、絶対に戦争して欲しくないということです。特に核兵器は絶対なくさなければなりません。世界が無くなってしまいます。これからの子供達には、人間としての思いやり、感謝の気持ち等を育てる教育をして欲しいものです。それが戦争の無い平和な世界をつくるのだと思います。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。