Home > 核兵器・被爆・原発 > 被爆体験「軍需工場徴用で被爆」

 

被爆体験「軍需工場徴用で被爆」

*タイトルは内容に即して変更しました。元タイトル「被爆50年をふり返って」

大分市    石井 与千代  さん (昭和6年生)

私が三菱兵器大橋工場へ行くようになったのは、終戦もま近い昭和20年7月の終わりでした。当時私は15歳でした。津久見の高等科から15名の同級生と共に、挺身隊という事であったのか?工場で徴用されました。あまり体が強い方ではなかったので、父親が学校へ話してくれたらしいのですが、無理であったと後で聞きました。当時の担任に、どのような人選をしたのか聞きたい思いが今でもあります。

この長崎三菱兵器工場は、当時想像することのできないほど大きな工場でした。爆心地より1. 2キロ程度の所にあり、魚雷を作っていました。私たちは工場から歩いて十数分程度の所にある、三菱兵器住吉女子寮に住んでいました。私と友人は第3仕上工場に配属され、雑用の仕事だったと記憶しています。

8月9日、この日も朝7時過ぎには工場でした。空襲があり警戒警報に変わった11時すぎ、 忘れる事の出来ないあの閃光と爆風によって、作業台に打ち付けられ気を失ってしまったのです。どのくらいの時がたったかわかりませんが、手の感触で気がつきました。それは友の顔からの出血だったのです。天井に設けられた魚雷を運ぶ何メートルもあるトロリーが落ち、その下敷きになっている人々もおり、友人はその機械の端で頭を切っていたらしいのです。私は友人を起こし・・・それからの記憶は2人ともになく、思い出そうとしますが・・・。この少しの記憶の中で、今だに目に焼きついている光景があります。仕上工場の端のほうに塩酸を入れている小屋がありましたが、その槽の縁に男性と思われるズック靴を履いた片足だけが残っていたのです。15歳の私にはとても衝撃的な光景で、いまだに鮮明に思い出されます。

友人と私は、人の流れに従って逃げました。寮は燃えていて火の海でした。2人でどこをどのように逃げたか分かりません。人も犬も馬も全身黒焦げで死んでいました。ただ何も彼もが黒かったと記憶しています。死んでいる何人もの人々をどうすることもできず、一生懸命に逃げる事だけが頭にありました。途中で布を捨て半分を腰に半分を友人の頭に巻いたおぼえがあります。私の頭にもガラスがいっぱい刺さっていて触ることもできない有様でした。だが痛さは感じませんでした。どの様にしてどこを目的に逃げたかおぼえがないのです。ただ人々の流れにそって走ったと思いますが、地下壕に向かっていました。工場が作った壕でしたから大きなものでした。壕の中では軍の人が指揮をとっていましたが、友人は出血が多かったので別の所へ移され、私は炊き出しや重症者の救護に廻されました。血まみれの人々にアルコールを掛けるのです。4人や5人ではないので、こうするより仕方がなかったのでしょう。「お母さん」と息絶える人々を見ても、どうすることもならなかったのです。夕方、黒い雨が降りました。

壕の中であったのか外だったのかはっきりしませんが、同級生に出逢い、大分に帰ろうと思い、夜の明けるのを待って道ノ尾駅までレール伝いに歩きました。レールがアメの様に曲がっていました。私は水も飲んでいないのになぜか吐いてばかりでした。苦しかったのを憶えています。

諫早駅だったと思いますが、ホームに火傷の人々が魚のように並べられていました。人を見ると「水・・・水・・・」とかすかに手をのべていました。だが何も出来きずにただ見ているだけでした。幼い私には、地獄のような光景でした。異常な様子の私達を、駅の人々は何も言わず汽車に乗せてくれました。空襲を避けながら歩いたり、汽車を乗り継ぎ、飲まず食わずで5日間かけ、やっと我が家にたどり着きました。

それからの私は半病人であり、恐怖心に悩まされました。親は大変心配し、医院に連れて行くしかなかった様です。髪はぬけ、歯ぐきからの出血もあり、女の子のしるしもなく、初潮をみたのは20歳になってからでした。その話を友人たちにしましたが、皆もやはり遅かったという返事でした。

私自身、被爆したことにあまり心配はしていなかったのですが、それというのも知識がないためでした。結婚するとき被爆の事は話しませんでした。ただ長女を嫁がせるときには迷いましたし、考えもしました。進学時に風邪にかかると治りにくく、医師も困っていた時など、もしや被爆のせいでは?と、人にも云えず悩 んだこともありました。常に不安があります。子宮の手術もしました。被爆した友人もガンで亡くなりました。被爆者はガンをさける事が出来ないのかと思います。

被爆のことは忘れたくても忘れる事ができません。核兵器を一日も早く廃絶し二度とあの日のような事のない平和な世界を実現しなくてはなりません。人々の幸せを心から願っています。私の青春は被爆による洗礼でひどいものでしたから・・・。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。