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被爆体験「『ピカドン』被爆の側面的証言」

大分市    後藤 博彦  さん (大正7年生)

私は、軍隊時代に広島駅裏の小学校に駐屯していたが、原爆が投下された直後に市内に入り救援活動に従事した。

あの当時「原子爆弾」という名称はまだなく、広島の人は皆「ピカドン」と呼んでいた。これはつまり、ピカッと光ってドカーンというものすごい音がしたというところから生まれた言葉である。たった一発で20数万人の死者を出し、何十万人もの人をそのあ後遺症で苦しめ、全市を壊滅的な状態にしたその爆弾の威力の凄まじさに驚いたのである。とにかく、あの灼熱の爆風が去った後の惨状は、まさに地獄絵を見るようであった。

この特殊な爆弾は、その破壊力の威力に加え、「放射能」という恐るべき奇怪な物質を含んでいた。死傷を免れても、被爆者は次第に人間の正常な機能を失い、ついには廃人になるという恐ろしい情報が流れたが、当時は誰も「放射能」というものを知る由もなかった。そして、広島被爆の3日後、またこの「ピカドン」が長崎に投下され、この爆弾の強力な威力と酷たらしい惨状が、さらに国中広く伝わった。

私は長いNHK勤務の中で、縁あって昭和41年から3年間、広島に勤務した。

あれは、たしか42年の初夏だったと思うが、私のデスクに1冊のテレビドキュメント台本が置かれていた。中を見ると、骨組みのしっかりした構成で、メリハリも、なかなか力強いパンチもあり、説得力もあった。しかし、読んでいるうちに、私の心に引っかかるところがあった。それは小頭症児を描いた部分であった。

その小頭症児は被爆時に母親の胎内にいて、そのために頭が小さく、当時二十歳を超えていたのに知能は幼児程度という知恵遅のかわいそうな娘であった。台本の中には彼女の姿を撮影したものが数箇所あり、その中にアップシーンが2回もあったのだ。製作者に聞くと親の了解は得ているとのことだったが、人権や差別問題に抵触する点もあったし、私は茶の間にその映像をストレートにと乳けるのはふさわしくないと判断し、製作者と長時間による激論の末、この小頭児の部分はカットさせたのである。私が反対したのには他の理由もあった。それは、私自身が被爆の体験者であり、今なお体にも心にも被爆者としての大きな傷を残しているという複雑な思いがあったからである。そのうえ私には、救援活動中に見たあの酷たらし惨状が眼に焼きついていた。焼けただれた即死者、川に飛び込みうごめいている男か女かわからない人々、髪の毛は抜け落ち水が欲しいと悲痛な叫びを発している人々、鮮血で衣服を真っ赤に染めて苦痛を訴えている妊婦・・・。

後日、私は台本の内容を確認する意味もあって、その母娘の家を訪ねた。その家は細々と営んでいる小さな理髪店だった。母親は未亡人で、一人で必死で娘を育てているということだった。夫は被爆後6日で意識を回復することなく亡くなったのだそうだ。母親その人も、体のあちこちにケロイドがあり、貧血や歯茎の出血が続いていると言っていた。母親は涙ながらに語ってくれた。

「娘のことを考えると、私は死ねません。親族も被爆で苦しみながら毎年のように次々に亡くなって、この娘の身寄りは私一人です。この娘の病気は絶対に治ることはありませんし、貧乏と絶望で何度母娘心中をしようと思ったかわかりません。一日として楽しい日はなく、苦しく、長い長い年月でした。」

私は聞いているうちに悲しみと怒りがこみ上げ、やりきれない気持ちになった。母親の話を聞いた後、娘に会ったのだが、その姿はあまりに哀れで痛々しく、私はとてお正視できず、胸を深く衝かれた。彼女に語りかけてみたが、言葉を知らないのか、徹底して沈黙していた。しかし、しれは人間の発する言葉にならないうめきではなかろうかと私は思った。原爆の非人間性と残酷さに、私はあらためて心底腹が立った。そしてその時、たとえ母親の了解を得ていても、この母娘を描くのはあまりに悲惨で、放映すべきではないと決断したのはよかったと思った。この母娘に着目し台本作りまでやった製作者の苦労と意欲に水を差して悪いという思いはあったが、その時の判断は間違ってはいなかったと、おまでも思っている。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。