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被爆体験「戦争のない世界を」

別府市    仲田 孝  さん (昭和3年生)

当時19歳だった私は教員資格を得るために広島高等師範学校に入学することになっていました。しかし日本は敗戦寸前の混乱した状況下にあり、4月になっても学校からは連絡がなかったので、学徒動員されていた中津の工場へ通っていました。

ようやく呼び出しの連絡があり入学できたのは、忘れもしません、昭和20年7月23日の事でした。余談ではありますが、その前日は、軍港であった呉の基地が空襲で壊滅的な打撃を受けた日です。

入学はしたものの、先輩の2年生のほとんどが、学徒動員されて学校にはおらず、1年生を教育するために数人が残っているだけでした。そして入学したばかりの私たちも早速動員のための基礎訓練を一週間受けると、さっそく東洋工業という工場へ通い始めました。そこでは小銃を作っていました。

連日どこかに空襲を受けている状況の中で8月6日を迎えたわけですが、その日も朝、寮を出かける前から空襲警報が鳴っていました。そのため7時22分に乗るはずの列車が30分も遅れ、7時50分過ぎに広島駅を出発しました。後で考えると恐ろしい事ですが、もし列車がもう少し遅れていたら、私は広島駅で被爆して、もっとひどい体験をすることになったでしょ。

工場は広島駅から1つ目の駅のすぐ前にありました。私達はそこの3階で作業の基礎講義を受けていました。講義が始まって2〜3分もした時だったでしょうか、突然ものすごい光が部屋の中に飛び込んできました。何が起きたのか分からずに、光ったと思われる方向を見ましたが、何事もなさそうだったので正面に向き直りました。その瞬間です。「どーん」と言う爆音とともにものすごい爆風が襲ってきたのです。今まで経験したことのない衝撃でした。とっさに机の下にしゃがみ込み『もうダメだ』と感じました。「にげろー」という誰かの声に皆あわてて3階からかけ降り、避難壕へ逃げ込みました。

どれほどの時間が経ってからでしょうか、おそるおそる壕の外に出てみると、広島市内の上空あのキノコ雲がもくもくと立ち上がっていました。ガス爆発だろうかと誰かが言いましたが、何の情報も入らないままで、さっぱり訳が分かりませんでした。やがて全員集合させられて、その場で先生から広島がやられたので救援に向かうと言われました。

工場を出発したのは9時過ぎだったのでしょうか。乗り物は一切無いので、隊列を組んで歩いて現地へ向かいました。その時私たちの姿と言ったらボロの作業服に草履と言う恰好でした。

しばらく行進していると、前方から異様な姿の人たちが歩いてきました。服は破れ、ほとんど何も来ていない状態で、皮膚はめくれて白い肉がむき出し、応急処置に塗った油のためか、ところどころ黒くなっていました。私はその人たちの悲惨な姿を見た時、『畜生、絶対に仇をとってやる』という気持ちになりました。しかし、そんな怒りもそう長くは続きませんでした。それから否応なく見せられた地獄絵のような光景と、十分な食事を取れない状況の中では、そんな気力は次第に弱くなっていったのです。

なお歩いていくと、今度は寮に残っていて危うく助かった生徒たちと出会いました。その時、彼らの腕には御真影(天皇陛下の写真)がかかえられていました。何をおいても先ず御真影を、と持ち出したのでしょう。今では考えられないことですが、そういう時代だったのです。

市内の御幸橋までたどり着いた時、軍人から状況説明がありましたが、その軍人にも実際のところ何が起こったのか訳が分からず、何から手をつけたらいいのかわからない様子でした。あちこちで火の手が上がっていたものの消化することもできず、私たちはただ軍人の命令通りに作業を行いました。

寮も学校も焼けてしまい、私たちは工場で寝泊まりして数日間は市内まで歩いて通っていましたが、行っても殆どする事はなく、後で考えれば恐ろしいことですが、ただ残った放射能を浴びに通っていたようなものです。

被爆してすぐ罹災証明書を渡されました。それがあれば列車に乗れるから大事にしろとのことでしたが、その有効期限は渡された日から5日間でした。何が起きたのかわからず不安だった私達は、先生に帰らせてほしいと詰め寄りました。上の人に対しては反抗できなかった当時でしたから、皆よほど切羽詰まった心情だったのでしょう。しかしそれでもなかなか帰してもらえず、とうとう2年生が自分たちが全て責任を持つから1年生は帰れと言ってくれました。しかし退学は覚悟の上でということでしたが・・・。そういう次第で私は証明書有効期限ぎりぎりの10日後やっと広島を出発することが出来たのです。

列車内は帰省の人たちで超満員の上なんとも言えない臭いが立ち込め、それは悲惨なものでした。昼間の市内は真っ暗な焼け野原に黒焦げの樹木と福屋デパートの鉄筋が立っているだけの光景でしたが、車窓から見た夜の市内には、被爆から5日も経っていたのに、まだ所々に赤い炎が消え残っていました。

中津の実家では、両親が安否を心配しながら私の帰りを待っていました。親心でしょうか、父親は私がきっと帰ってくると思っていたそうです。翌年の2月には退学処分もなく復学することができ、願い通り教員になりました。

私は被爆前の17歳の時に、学徒動員での作業中に指を切断するという事故に遭い、一級障害者として生きてきました。教員を目指したのもそのためだったのですが、その事故にしろ被爆にしろ、その先には戦争と言う大きな原因があったのです。私は強烈な平和主義者です。そして憲法9条は絶対守らなければならないと思っている者です。そのことを明言してこの話を終えたいと思います。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。