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被爆体験「閃光を浴びて」

別府市    手嶋 精  さん (大正9年生)

私は、昭和16年3月6日に召集され、入隊しました。小学校に上がった頃、左目の視力が悪いのが分かり、兵隊検査では第三乙でしたので、意外でした。その後、内地を中心にジャワ、スラバヤなど、南方に行きました。

昭和19年1月6日に、広島の比治山近くの皆実町にある船舶通信補充隊に配属されました。そこは、爆心地から2キロメートルのところでした。

前日の8月5日夜、呉で大空襲があったので、6日の午前中は、勤務者以外には就寝許可が出ていました。私たちはその朝、庭に20人ばかり横隊に二列に並んでいました。指揮官が申告のため週番士官を捜しに行ってるとき、誰かが比治山の上の方を指さして、「飛行機が飛んでいる」と言ったので、空を見ていましたが、確認できないうちに強烈な青い閃光を感じ、その瞬間は覚えているのですが、その後どれほどの時間が経ったのか、全く分かりませんでした。

気がつくと、目の前にあった平屋建ての兵舎が壊れていて、その中に私一人だけが入っていました。吹き飛ばされたのか、駆け込んだのかわかりませんが、光を見た場所から6〜7メートル離れた所にいたのです。その間気を失っていたのか、音は聞こえませんでした。埃が静まるように、ジャーと目の前が明るくなったので、外に這い出ました。外に出てみると、正面営門から入ったところの二階建兵舎は、おおむね壊れていました。全て二階部分がしゃがれたようになっていましたが、幸いにも火災にはなっていませんでした。私は顔の左頬から口にかけて火傷をしていましたが、火傷が痛いとも思いませんでした。無我夢中だったのでしょう。

そのうち、誰が言うともなしに倒壊兵舎内の負傷者の救出、誘導をし、本部右手の医務室に搬送しましたが、おそらく充分な手当てはできなかったのではないかと思います。何しろ民間の人たちが、「兵隊さん、なんとか助けてくれ!」となだれ込んで来る有様で、パニックも極限の状態だったかと思います。部隊の裏に三メートル位の道に沿って小さな水路と生垣がありましたが、その垣根が壊れていて、子供たちや民間の人々がそこから次つぎと入ってきました。行くあてがないのか、「兵隊さん、助けて!」「水をくれ!」と言うのです。みずをあげたいのですが、水は悪いということで・・・。

どうしようもなかったのです。子供たちの夏の薄い白シャツはちぎれたようになっていて、背中は火傷してました。中には火傷で里芋をふかしたようになっているものもありました。週番士官もシャツの背が焼けて水槽に飛び込んだとのことでした。仮設病院に行ってみますと、動ける人は治療を受けることも出来ましたが、動けない人には蛆がわくという状態でした。死体はどんどん焼かれていきました。どうしようもなかったのです。

町には、何もありませんでした。外から見ると普通に建っている鉄筋の建物も、中に入ってみると天井が落ちていました。電信柱の上の方は炎を出して燃えていました。比治山の樹林も赤茶けていました。家もなくなり、被災者は目的もなく皆の行く方向にただ歩いているだけでした。途中で行き倒れになる人もいました。その人たちは比治山の麓の広場に運ばれ、こもがかぶせられました。広島に特殊爆弾が落ちたと聞いて、市外から子供や親戚縁者を捜しに来た人たちが、いちいちそのこもをはぐって確認していました。いろんなものが燃えて町はなんとも言えない臭いがしていました。普通の爆弾と違って、一発で、一瞬にして何もかもなくなったという感じで、一体どうしたことになったのかと思いました。

渦中にいた私には、原爆は何とも地獄でした。家内とも話しますが、居場所が悪ければ、現在の私はなかったと思います。火傷にはじゃが芋を摺ったのを塗るとよいと言われて、そうしていました。口のところだったので、食べられなかった苦痛を覚えています。

その後一週間ばかりして、心配した父親が、大分から汽車で訪ねて来ました。よく捜し当てたものだと思いました。一晩泊まって帰りましたが、あの混乱のさ中、よくもまあと、親の大きな愛をひしひしと感じました。

終戦の報を受けたときは、本当に負けたのだろうかと思いましたが、そのまま抵抗なく受け入れました。9月に入って別府に帰り、児島さんとすぐに病院?に検査に行きました。幸いどこも悪くはなく、白血球の異常もありませんでした。帰ってすぐ、親の後を継いで農業をしながら、建設資材を運ぶ仕事をしました。

終戦の次の年に結婚し、3人の子供にも恵まれましたが、被爆二世としての子供たちの結婚への影響が心配され、被爆のことはなるべく言わないようにしていました。

とにかく、健康に恵まれて真剣に働きました。ところが68歳になった6年前に血尿が出て、膀胱をとり、4ヶ月入院しました。それまでは風邪もひかず、肩が凝ることもなく、自分では健康に自信を持っていましたので、やはり被爆のせいかと思います。50歳代で足が悪くなったのも、そうではないかと思います。子供が無事成長し、心配がなくなったので、昭和60年に被爆者手帳を取りました。

広島には戦後一度も行ってません。

今は、畑仕事、自治会や老人会の仕事をし、ゲートボールを楽しんでいます。老人会では、毎月一回、氏神様の境内の掃除にも行きます。することが何もないほど寂しいことはありませんので、健康のためにもすすんで体を動かしています。顧りみると、家内共々、真剣に働きました。悔いのない人生だったと思います。今の自分があるのは、軍隊で苦労したおかげだと思います。

日本は、昔のように軍事大国になることはないと、心配はしていません。アメリカ、韓国、中国が懸念しているように、原爆を持つという方向には絶対進まないと思います。

実に惨めな敗戦にもめげず驚異の復興を成しとげたのは、国民の並々ならぬ努力のせいかであろうと思います。その根源となったのは、思いやりのある健全な家庭環境だと考えます。核兵器ゼロの時代の到来を切望してやみません。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。