Home > 核兵器・被爆・原発 > 被爆体験「数え切れない死体が・・・」

 

被爆体験「数え切れない死体が・・・」

九重町    坂本 静夫  さん (大正9年生)

私は25歳の時、広島で被爆しました。当時、私は宇品の小さな丘の上にあった高射砲隊に配属されており、対空攻撃の第一線にいたのです。広島には市を包囲するような形で五中隊が配備されていました。原爆が投下される頃には、B29が30機ほどの編隊でやって来ていましたが、それまでは、広島が実際に空襲を受けたのは二度位だったと記憶しています。近くの街はかなり激しく攻撃を受けていたようで、特に呉市には軍港があったからでしょうか、私が居た処からも戦火が見えておりました。

原爆が落とされた6日の日には、朝まで空襲警報が発令されており、8時ごろに解除されました。私は下士官だったので会議の招集を受け、事務所へ向かおうとしていました。すると敵機発見の報があったので、再び配置について状況を見ていました。その時、被爆したのです。強烈な閃光、それから30〜40秒後にきた凄まじい爆風、そして目の当たりに見たキノコ雲・・・。しかし私は幸に直接外傷を負うことはありませんでした。その時は近くのガス会社に爆弾が落とされて爆発したのではないかと思いました。

その後、全市から火の手が一斉に上がり、焼け野原になりました。私の部下の一人は市内に帰省していて被爆したのですが、その日の夕方部隊に帰って来た時には頭の毛は抜け、42度位の熱を出していました。市内の様子を見た時、彼はよく助かったものだと思いました。投下の時は丁度朝礼の時間だったので、外に出ていてなくなった人が多かったのではないかと思います。

原爆投下後も、ただ警備するだけではありましたが、私は任務のため部署を離れることができませんでした。海岸には数え切れないほどの死体が流れ着き、それは無残な有様でした。熱さから逃れるため水辺に行きそこで息絶えて海へ流されたのでしょう。あの悲惨な光景は今も目に焼きついています。火傷を負った人たちが、宇品の港から船で似島の検疫所に送られていくのも見ました。

8月15日、私は宇品で終戦を迎えました。その後大阪の天王寺の司令部に命令受領に行き、10月10日に故郷に帰るまで、大阪で憲兵として働きました。

故郷に帰ってからは軍人だった頃とは比べようもないくらい病弱になり、入退院を繰り返しました。今なお薬は離せません。それにしても、近い所で直接被爆しなかったのは、まだしも幸いだったと思います。

一瞬にして多くの尊い命を奪ったあの惨事、今なお被爆者に苦しみを与え続けている原爆・・・。私はこの事実の認識を若い人たちにしっかり受け継いでもらいたいと思います。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。