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被爆体験「二度と戦争は起こさないで」

佐伯市    梶原 瑞枝  さん (大正10年生)

私は広島県呉市の親類が経営していた軍の下請け工場で働いていました。

原爆が落とされたあの日、私は空襲警報解除の連絡に廻ろうとしていたところ、工場の奥さんが代わりに廻ってくれました。それで私は窓ガラスの掃除にとりかかろうとしていました。その時、原爆が投下されました。そのため目や頬が沢山のガラス破片で傷つき、血まみれの状態になりました。工場の方に背負ってもらい、近くで働いていた軽傷の主人と一緒に避難所に行きました。

避難所で傷の手当てをしてもらい、顔も数針縫いました。怪我のため目で見ることはできませんでしたが、聞いた話によると、避難先では、骨と皮だけの女の子がいたり、ガラスの破片で口元を切り、食事ができずに亡くなった人もいたようでした。食事も不足し、盗んできた食べ物を、皆で少しずつ分けあって食べたりしました。

私の怪我は切り傷で火傷はなく、手当てを受けることができましたが、火傷のひどい人は悲惨な状態でした。その後は全くの難民生活でした。

主人の仕事の関係で佐伯市に住みはじめましたが、子供は戦争の話を聞きたがらなかったし、私も戦争や原爆被爆のことを話しませんでした。顔に残った傷跡は、今ではシワの一つのようになってしまいましたが、原爆の恐ろしさはいつまでも消えることはありません。「この世の地獄」だった広島を思い出すたびに、二度と戦争を起こしてはならないと心に誓っています。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。