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被爆体験「いま話す「あの日」のこと」

本耶馬渓町    伊藤 妙子  さん (昭和2年生)

私は18歳の時、広島で被爆しました。当時、広島女学院専門学校の保健課に在学中でしたが、学徒動員で東洋工業の工場にいました。父は三菱造船所の医師をしていたのですが、疎開すると言うので、私は学校の寄宿舎に入りました。三年生で卒業論文を済ませ、工場では工作機械を使っていました。学徒動員で長崎をはじめ、大阪、神戸で働きましたが、いずれも空襲で焼け出される形で移転し、最後は広島で被爆することになった訳です。

原爆が落とされたときは、何か大きなものが落ちたくらいにしか思っていませんでしたが、気がついた時は、無我夢中で、市内から逃げてきた怪我人の手当てをしていました。私自身には怪我はなかったのですが、ほとんどの人は足や手が焼けただれており、バケツに消毒液を溶かして治療に当たりました。何か大きな異変があったとは思いましたが、次から次へと負傷者が押しかけ、目が廻るほど忙しく治療に追われるばかりでした。

夕方になって宿舎に帰れと言われ工場を出たのですが、宿舎はこわれており、友達と三人一緒に牛田の山の上の修練道場に行きました。しかし、そこも青い立木が燃えていて危険でしたので山を降り、芸備線の矢賀駅から最終便で狩留家駅近くの友人宅を訪ねました。そこに三日ばかり泊めてもらい、自宅に向かいました。

広島市内は電車が不通でしたから歩きましたが、途中、川の土手には死体がごろごろと埃を被って転がっていました。熱いので水を飲もうとしてたどり着いたが力尽きて死んでしまったのでしょう。中には名前を呼んで家族を探し廻る人もいました。今でも忘れられないのは、生徒がクラスの先生と出会った時、髪は焼けて無くなり、背中の皮が焼けはがれて赤い生身が出た姿で「先生、先生」とすがりついて泣き叫ぶ姿でした。私もついもらい泣きしました。

自宅にたどり着きましたが、広島では青々とした立木が燃えていたので、故郷の緑が不思議に思えてなりませんでした。帰ってからは、体の中が燃えてるような感じで、生ものが食べたかったことを覚えています。

昭和二十一年に結婚しました。夫も夫の両親も被爆の事は知っていましたが、広島は草木も生えないとか、奇形の子供が生まれるとかの噂もあって、近所の人には隠すようにしていました。

27歳頃だったと思いますが、生死をさまようほどの病気をしました。父も兄も夫も医者でしたが病名がわからないままに足がたたなくなり、寝たきりでしたので、脊髄炎だろうということでした。原爆の後遺症だったのかもしれません。最近は白内障で視力も衰え、特に日光には弱く不自由しています。

きのこ雲が上がった瞬間、そして焼けただれて死んでいった人々、あの日の事は話したくありません。軍医として南方戦線に行っていた夫も、当時の話はしたくないようです。しかし被爆五十年、残り少くなった余命を考え、若い方々に聞いてもらい、核兵器廃絶の運動に役立てたいと思い、お話しする気になりました。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。