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被爆体験「平和を祈って」

日出町    丸山 止  さん (大正3年生)

8月6日、軍用で呉市の網会社に行くため、7時半に五日市の兵舎を出て国鉄広島駅に向かって歩いていると、空襲警報が鳴った。晴天の空を仰ぐと、やっと竹とんぼほどの大きさに敵機が見えた。地上から高射砲を打っていたが、距離が遠いので途中で炸裂していた。その内、黒い塊がポッと落ちてきた。私の目には落下傘と見えた。敵機がやられて人間が脱出したのだと思った。しばらく見ていると1分もたたないうちに敵機は見えなくなった。そのとたん「バチッ」と青竹で道路を叩く様な音に、身を伏せたつもりが弾き飛ばされ、一瞬息が止まった。ちょっとの間気を失っていたが、女子中学生2人に「兵隊さん鼻血がでよる」とちり紙を差し出され、我に戻った。「あなた方は、大丈夫か」と尋ねると、2人は「転んだ程度です」と答えて去って行った。周囲を見ると屋根瓦が飛んだり、窓ガラスが割れたりしていた。これはただ事ではないと思い、すぐ兵舎へ引き返した。その時、爆心地の空に原爆雲が立ち上り、雲の下は夕立の様な雨だった。

五日市の兵舎では「駅に向かっていた丸山は、助かっておらんだろう」と話していたらしいが、私の無事な姿に「よう助かった。よう無事じゃった」と言いあった。しかし、気を落ち着けてみると一瞬の暴風により右耳の聴力は完全に失われ、左耳までもが聞こえにくくなっていた。

やがて一時間もすると、被爆した人々が「助けて、助けて」と口々に叫びながら溢れ出し、あの広い国道は生き地獄だった。私自身も被爆者だったが、皆と一緒に救助活動に入った。倒れている者や、座り込んでいる者は放置して、立って歩ける者から収容した。実際そうしないと救助など不可能な状態だった。被爆者は近所の学校だけでは入りきれず、2キロ離れた五日市の小学校まで転送した。ちょうど同じ頃、負傷兵を乗せて似島から入港して着た汽帆船は、広島の惨事を知らされ、山口の柳井港へと回されたようだった。

私が最後に収容した婦人にいきさつを訪ねてみた。45歳位の婦人は「家族4人で朝食をとっていたら空襲警報が鳴ったので、私が縁側に出て様子を窺った。ふいに黄色い線がスーッと横に通るやいなや、光が胸に飛び込んで来た。思わず両手で光を抱き込んだとたんに縁の外にはじき出され、気がつくと家は潰れ家族も助からなかった。助けて誰か助けてと周囲に叫んだが、近所の人も同じように叫ぶばかりだった」と言う。婦人は、胸から下が焼けただれてびろびろになっていた。命は取り留めたものの、なんとも痛々しかった。

長い一日が終わり翌日から兵舎の修理をしていたが、8月15日敗戦の日を迎えた。天皇の御言葉が流れ、いよいよこれで負けたのかと思うと、何とも言えない情けない気持ちで泪がこぼれた。その後、書類や軍人手帳を焼却させられ、9月1日召集解除となり、5日早朝、故郷日出に戻った。

思えば昭和18年4月、妻子と両親を残し、熊本の第六師団工兵隊に入隊してからの二年間、和浦丸に乗船し台湾、マニラ、フィリピンと戦地を回り幾度もの危機に会い、帰り着いた後、広島で原爆投下。家族皆で無事を喜び合うにつけ、よくぞ命が助かったものだと感慨無量だった。

二、三か月経った頃、原因不明の発熱が続き、原爆症ではないかと不安だった。当時、亀川国立病院の前の地蔵様の頭に、誰にも見られぬようヒヤキを被せると病気が治るという話が流行り、私の身を案じた母が被せに行ってくれたりした。迷信かもしれないが不思議と私の熱は引き、皆で胸をなでおろしたものだった。その後はすっかり体力が落ち、風邪をひきやすくなってしまったが、幸い子供にも恵まれ、家族で農業を営む事ができた。

昭和60年頃、法要の為に行った岡山で、原爆の話を親類とした折、初めて被爆者手帳の存在を知り驚いた。半信半疑で日出の保健所を尋ね、証人を捜すなどして昭和61年3月被爆一号の認定を受けた。被爆地から遠いので手帳交付の広報活動が行き届かなかったのだろうが、当時すでに戦後40年が経っていたため、私が広島にいた事を証明してくれる戦友を捜すのに大変苦労した。恐らく、証人が得られぬまま亡くなった人も多いだろうと思う。

終戦から50年が流れ、今は本当に幸せな時代になった。こんな時代が来るとは想像もできなかった程だが、そうであるからこそ、もう二度と戦争を繰り返してはならない。あんな哀れな、あんな惨めな戦争は二度といらない、赤黒く焼け爛れた塊と、えも言われぬ死臭が思い出される度、平和こそを心から祈る。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。