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被爆体験「火傷」

安岐町    後藤 裕一  さん (大正12年生)

私は当時21歳、幹部候補生の伍長だった。熊本の輜重隊で馬に足を踏まれ、そのまま風呂に入ったところ化膿してしまい、日赤に入院していたのだが、そのうちに広島の幹部候補生教育機関に要請された。広島に行って3ヶ月目に足の病状が悪化し、2月11日、再び日赤に入院してからあの日までずっと入院生活を送っていた。その頃は、皆が聖戦を闘っているのだと思っていたので、戦争に敗けるなどとは、全く考えてもいなかった。

8月6日はとても静かな日で、敵機が一機だけ上空に音を響かせていた。そして、空襲警報が解除された後、原爆が落とされた。

私は怪我こそしなかったが、爆風と熱風のため身体にひどい火傷を負った。日赤にはその前日に40人収容の防空壕ができたばかりだったが、その中に60人が隠れていた。私もそのうちの1人だった。薬などほとんどなく、私は唯一持っていたグリセリンを火傷に塗って我慢していた。壕内では10人が死んでいたが、私は自分のことしか考えられなかった。軍人以外の人を地方人と言っていたが、そういう人たちが日赤内の庭や、ありとあらゆるところに溢れていた。日赤には6病棟とあったが、ほとんどが木造だったので、あっという間に炎が広がり、三日間燃え続けた。

原爆が落とされてから一週間は日赤にいたが、広島に居れば放射能の影響があるから自分の郷里へ帰れと言う命令が下った。私はその時初めて日赤の外に出て街の惨状を知ったのだった。電車は丸焼け、川には死体がぷかぷか浮いていた。私はそれまでは日赤内にいたので、黒い雨は見なかった。

私がそのとき持っていたのは、乾パンと火傷の薬、そして現金50円のみだった。20日に電車が復旧し、私は広島駅で別府までの二等切符を買ったのだったが、電車は中も外も人でいっぱいで、等別などは全く関係なかった。小倉で一泊し、日豊線に乗って杵築で降り、軽便鉄道で安岐駅に着いた。家に電話をしたところ母と当時小学校4年生だった弟が自転車に乗って迎えに来てくれた。それから家に帰り着くまでのことは覚えていない。

帰ってから、眩暈がしたり意識がなくなることがしょっちゅうだった。一年間はそんな症状に悩まされた。今ではほとんどがわからなくなっているが、ケロイドもひどかった。何しろ蛆虫が湧いていた位だから・・ ・。不自由なことも多々あったが、畑もあり家畜も買っていたので、食料には困らなかった。被爆による病状が特に現れるということもなかったが、結婚する時はやはり心配で、被爆した事は黙っていた。子供にも孫にも全く異常はないが、今後も大丈夫だろうかと少し心配だ。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。