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被爆体験「被爆の生証人として」

院内町    浮城 昭二  さん (昭和2年生)

私は昭和二十年の四月、広島の鉄道病院で医者をしていた叔父の世話で広島電気学校へ入学し、昼は国鉄で電気関係の仕事をしながら夜間学校で学ぶという生活をしておりました。しかし、やがてあちこちで空襲が激しくなってきたので、叔父の家族を連れて実家があった院内へ引き上げることになりました。そして八月五日の午前一時頃の電車で広島を離れる予定だったのです。ところが前の夜に岡山で空襲があり汽車が遅れるというので一度家に帰り、六日の夜の便で出発することにしました。私は五日は駅で一夜を過ごし、六日の朝、荒神橋で電車を待っていました。橋の上から見る広島の川は、いつもは汚れているのに、その日はえらくきれいだったと記憶しています。クラゲがぷかぷか泳いでいました。魚影も見え、あの魚は何という名前だろうかなどと考えながら下を覗いていた時、右後方からドーンとやられたのです。いえ、「ドーン」なんて生やさしいもんじゃありません。「ジリーッ」という音がして、もの凄い爆風で手を架けていた石の欄干はふっとんだのです。後方からやられたので、頭と背中に熱線を浴び、服は焼け焦げました。

当時は、爆弾が落ちた時は身を伏せるという訓練をされていたのでとっさに伏せたのか、あるいは倒されたのか定かではありませんが、たぶん伏せたのだと思います。ところが、それはもう熱いものですから、私の腹の下にどんどんもぐってくる人がいるのです。男も女も関係なく、自分が助かろうと皆必死でした。そこは爆心地から一・七キロの処でした。

意識を失ったという記憶はなく、とにかく街の四ツ角ごとに置かれていた防火用水の所まで行き、それに飛び込みました。そして改めて周りの人達の顔を見ると、ある人は髪が無かったり、程度のいい人でパンチパーマより縮れた髪、顔の皮は焼けたすぐ後は真っ白で、時間がたつと黒くなるという具合でした。

消防団が、「敵機が笑っている。危ないから山のほうに避難せよ」とメガホンで伝えていました。確かにその時飛行機の音が聞こえたので、私も危ないと感じましたが、家には一足先に帰って行った叔母と姪が居るはずだったので、そちらへ行きました。行ってみると家は爆風でつぶされていましたが、幸い火災は発生しておらず、中から「助けてー」という叔母の声がしました。瓦をはずし屋根裏をこわして叔母と姪を引っぱり出しました。幸いタンスのおかげで命だけはとりとめましたが、ほこりで男か女か分からない有様でした。

叔父はその頃軍医として福岡の方へ召集されておりましたので、私は叔母と姪を連れて山林の基地へ避難し、二晩そこで過ごしました。近くの農家の方たちでしょうか、おにぎりを作ってきてくれていましたので、それを頂いて、空腹をしのぎました。それから汽車に乗るため広島の手前の横川駅まで歩いて行きました。その途中にも、道端に倒れて苦しんでいる人がたくさんいました。その上を越えようとすると、「助けてー」と言って抱きつかれたりしましたが、私達はそれを振り切って命からがら逃げたのです。もう他人のことどころではありませんでした。二歳の姪を抱いていましたし、本当にたまりませんでした。

戦後、原爆資料館の資料を見たのですが、あんな生やさしいものじゃありませんでした。私の服など、展示されているものの比ではなかったのです。こんなことなら私も焼け焦げた服をとっておけばよかったと思いますが、とにかくあの程度じゃなかったということを伝えておきたいのです。現実は、ああいう格好のいいものじゃありませんでした。

やっと実家に帰り着きましたが、直に熱線を浴びて真っ黒に焼け焦げた私の姿を見た母は、泣きながら私の顔をなでて、「本当にお前か」といいました。今はきれいになっていますが、その時は耳の形もなくなっていて、母が続けて「化け物じゃないのかえ」と言ったほどひどい姿だったのです。

本当に私自身、今こうやって生きているのが不思議なくらいです。十八歳の時に被爆して二十三歳くらいまで患いました。後遺症は今も続いています。鼓膜は破れていませんが、どういうわけか耳が聞こえず補聴器をつけています。耳鳴りもよくします。今はお医者通いが仕事です。二週間ごとに薬をもらっています。助かった広島の叔母も生きていますが、今でもガラスの破片が出て来るそうです。姪は怪我もなく、今は広島の県立病院で元気に働いています。

それにしても、私のように戸外で直に焼きつけられ、その上灰もかぶったのに生きのびている人間は、あまりいません。本当に不思議でなりません。院内町でも以前は二十人ほどの被爆者がおられましたが、今では四人になりました。今のうちに、たくさんの若い人達にこの体験を伝えたいと思っています。あのような悲劇が二度と繰り返されないために・・・。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。