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被爆体験「医者の言葉にショック」

耶馬溪町    福田 尚義  さん (昭和3年生)

私は、旧制中学校四年生の時、学徒動員で宇佐にあった兵器工場で働きました。その当時中学校は、五年生で卒業していましたが、戦争のためか一年繰り上げられ、五年生と一緒に卒業して、広島の旧制高等学校に進学しました。広島へはまだ来るなということでしたが、連絡の行き違いで七月一日に高等学校の寮に入りました。しかし、広島でも学徒動員で、東洋工業に通勤していました。

八月六日もいつものように、朝礼で工場の真中附近にいました。その時原爆が投下されたのですが、そこは爆心地から遠かったため、工場の屋根が吹きあげられ、窓ガラスが破損した程度で、私自身に怪我はありませんでした。外に出て見るとキノコ型の雲が見えました。学校が心配でしたのでそちらへ向かったのですが、何処をどう歩いたか憶えていません。ただ、御幸橋を通ったのは憶えています。橋の上には歩けないくらいの死体がならんでいました。又、怪我をした人々が逃げ廻っており、焼けただれて皮膚がぶら下がった姿は、幽霊でも見ているようでした。ここが爆心地ではないかと思われるような惨状でした。

学校に着いてみると、一週間前に一生懸命運び込んだ図書室の本が燃えていました。

次の日から、私達は東洋工業の寮に間借りして、着の身着のままの姿で、トラックに死体を積み込んで処理をしました。十日の夕方、「一時帰宅せよ」との指示を受け、混乱の中を夜行列車で郷里に帰り終戦を迎えました。

当時、広島の軍事基地あたりは、飛来して来る米軍機の攻撃を受けていました。いつかはやられるなという感じはありましたが、国のためなら死ぬことは当たり前と思っていました。戦争に敗けるなどとは考えていませんでした。

怪我をしなかった私ですが、帰郷後約三ヶ月くらい下痢が続きました。原爆が原因だと思っています。

翌年の二月に学校が再開され、広島に戻りました。卒業後は教師として物理学を専門に教壇に立ちましたが、原爆のことには触れず、アメリカ占領軍の指導もあって、原子力の平和利用を教えていました。

私は転勤が多く、被爆者だからといって差別されることはなかったのですが、妻は長男を出産した際、医者から「被爆者とよく結婚しましたね、恐くなかったですか」と云われ、ショックを受けていました。被爆したことを隠していた訳ではなかったのですが、周りで変な子供が生まれたという話も聞かなかったので、関心を持っていなかったのです。

学校の平和授業で広島の出来事を話す場があるのですが、被爆者であることを隠したりしていた教員もいました。中には退職後はじめて被爆者手帳の申請をした人もいます、このような体験は誰にもさせたくありません。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。