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被爆体験「病弱は今も」

津久見市    梶野 昭二  さん (昭和2年生)

当時は軍人になることが当然と思われた時代で、私も軍人になることを希望しておりました。それで十八歳で幹部候補生を志願し、大分の第十二海軍航空厰特別幹部候補生の試験に合格し、昭和二十年の二月に入隊しました。

原爆を被爆したのは広島の幹部候補生学校に在学中のことでした。丁度夜の勤務を交替し、二階の寝室に帰り、着替えをしている時でした。光と同時にガラスが吹き飛び、裸のまま床に腹ばいになりました。幸い怪我はありませんでした。友達はガラスの破片を受けて血だらけになっていました。

私は教官のお母さんを捜すため、市内を歩き廻りました。皮膚が焼けただれた大勢の人々が、川沿いに逃げているのに出合いました。今でもその情景が目に浮かんできます。

私は幸い外傷もなく特別な被爆症状はなかったのですが、熱が出やすく、特に夏は体がだるく、度々病院通いをする状況で、苦しい生活をしてきました。今でも胃が弱く健康ではありません。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。