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被爆体験「探しあてた父は既に死んでいた」

大分市    柚木 樹雄  さん (昭和8年生)

当時、私の家族は四人だったが、父と私は広島に居て、父は貯金局に、私は小学校に通っていた。母と妹は大分の宇佐に疎開していたのだが、あの時は、私を連れ戻すためにやって来て、たまたま広島に滞在していた。

その日、父は仕事を休んで早朝より市の中心部に勤労奉仕に出ていた。延焼を防ぐための家崩しだった。私達三人は、疎開準備のため家に居た。朝食を済ませ歯科医に行こうと言っていた時、庭の方で焼夷弾のような光がした。私と妹は恐ろしくて家の奥に逃げ込んだが、気丈な母は火を消そうと水汲みに風呂場に向かった。風呂場までのガラス戸に沿って走った母は、次に来た爆風で割れたガラスを全身に浴び、血まみれになった。爆風はものすごい勢いで、四、五秒間くらい続いた。私と妹は幸いにも無傷だった。母は自分で止血した。当時は止血法などの講習があったので、それが役に立ったのか、血は止まった。

私の家は爆心地から二・五キロ離れていたため半壊ですんだが、それより近い家はほとんどが全壊していた。私の家は、ギリギリの線にあったということになる。

三人で外に出ると、あたりはもう火の海だった。近所の藁葺き屋根に火がついて延焼したのだ。道は死んだ人や呻いている人手溢れていた。私達は、それを避けながら逃げた。郊外へ郊外へと逃げたために、火に巻き込まれずにすんだ。その日は野宿だった。近所の人で、光をまともに受けた人は亡くなり、後ろから受けた人は火傷で生きのびた。

翌日、父が被爆して己斐(現在の西広島)の小学校に収容されているという知らせが入った。集団疎開していた小学校の友人の父母が、たまたま父のことを知っていて、私達にしらせてくれたのだ。それがなかったら、おそらく父の消息は分からないままだったろう。しかし、私達が駆けつけた時、父は既に死んでいた。収容所は死体の山だった。

父の埋葬を済ませ、数日後に三人で帰郷することになった。宇佐への疎開である。汽車はおそらく無料だったのだろうが、被災にあった貨車だったのか、中は血まみれで、血の上に砂をまいていた。

宇佐に帰った私は、中一の時に学校を止め、家の仕事(漁業)を手伝った後、企業に就職した。その後、仕事をしながら夜間高校にも通った。

被爆後の広島に長く居なかったのが幸いしたのか、私達の後遺症は軽かった。私は市の健康診断で赤血球が少ないので精密検査を要すると言われたこともあったが、とうとう検査には行かなかった。母は貧血気味だったが、放射能との関係は分からない。三人とも今も健在である。被爆当時は後遺症のことはだれも分からなかったので、陰口をきかれるということもなかった。その後、何かと言われることもあったが、歳もとっていたので、聞き流すことが出来た。結婚して二人の子どもをもうけ、今では孫も生まれている。

「人間、全ては運だなあ」と、つくづく思う。あの日、歯科医に行くのをもう少し早く外出していたら、私達は三人とも死んだか大火傷をしてただろう。それに、家が焼けたために広島をすぐ離れたから、放射能を浴びる時間が短くてすんだのだ。被爆後しばらく広島にいた友達は、みんな髪が抜けたり原爆症になったりしている。父が死んだのは残念でならなかったが、家が焼けてくれたのは、ほんとうによかったと、今もそう思う。

戦時中の教育は間違っていた。小学校の頃、先生に将来何になるかと聞かれると、ほとんどの男の子は「軍人になる」と答え、先生はそれを誉めた。珍しく「お坊さんになる」などという子がいると、「気合を入れてやる」と言って、先生はその子を叩いた。先生だけが悪かったのではなく、あの頃は世の中全体が戦争に向かって燃えていたのだ。また、共産主義者は泥棒や強盗と同じだとも教えられていた。子供の時に叩き込まれた教育の影響は大きい。私達は、教えられたことを本当だと思っていたのだから、学校の先生は大きな影響力を持つ存在だ。だから、見識を広く持たなければいけない。何事も断定的に考えるのはよくない。人間は、自分が悪いことをしていると思ってやることは大したことではなく、いいと信じてやることが一番危険なものらしい。ナチとユダヤの関係も、その例ではなかろうか。いいところ悪いところ含めもって人間がある、という許容の心が必要なのではないだろうか。

戦前の教育を受けた者にとって、戦後は『以前と言っていることが違うな。おかしいぞ、おかしいぞ』と思う毎日だった。目からうろこがポロポロ落ちていく感じもした。戦前・戦後二つの全く反対の教育を受けた私のような人間は、はぎれの悪い人間になってしまった。一つのことを信じて突き進むのではなく、多面的に考える癖が身についてしまった。しかし、今は、それをよしと信じている。単純な人間ほどはぎれはいいが、これしか正しいものはないと考えるのは一番危険なことだと思うからである。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。