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被爆体験「登校途中で被爆」

※タイトルは内容に即して変更しました。 元タイトル「思い出のアルバムを開いて」

宇佐市    徳田 善四郎  さん (昭和2年生)

私の父は、四国は八幡浜の出身です。当時はどこの土地でも同じだったろうと思いますが、長男だけが故郷に残り、二男三男は、他の土地へと働きに出ました。父は広島を選び、いろんな仕事をしながら、海軍指定の工場を広島市の東はずれの七洲町に持つまでになりました。しかし、昭和七年八月二六日の大水害で工場を失い、再建のため、大分市は柳ヶ浦へ移ってきました。

広島の比治山小学校時代から勉強が好きだった私は、飛行機の魅力にもとりつかれ、旧制中学校卒業の後、広島市立工業専門学校、航空機科に入りました。私の中学時代は、文科系の生徒は兵隊にとられ、戦場へ行かねばなりませんでした。幸いに理科系だった私は勉強を許されましたので、母の里だった府中町に住み、そこから学校に通っていました。

八月六日。その日は大変天気が良く、朝から蒸し暑い日でした。私はその日試験日でしたので、早めに家を出てました。大洲町あたりで空襲警報を聞き、知人宅に立ち寄り、解除とともにまた学校へと向かいました。ところが次の飛行機が飛んできた時には警報は鳴らず、急に目の前が、ピカピカ、チカチカと光ったのです。急いで顔を手で覆い、その場にうずくまりました。同時にものすごい音を聞いたかと思うと、私の体は吹き飛ばされました。幸いにも飛ばされたところが畑だったので、私は怪我をしなくてすみました。学校に着いてみると、校舎は傾き、窓という窓のガラスは吹っ飛んでいて、友人たちは血だらけになっていました。(この校舎に危険はないということで、その後卒業するまで三年間そこで授業は続けられましたが、窓ガラスは入らぬままでした。)

原爆にあった先生方がぽつぽつ集まってきました。市の中心街を見ると、あちこちで煙が立ち上がり、これは大変なことになっているぞと感じました。各自帰宅せよとの指示があり、私は府中へと戻りましたが、家の雨戸は爆風で飛んでいました。勤労奉仕から帰って来た祖母も、この爆弾が「原爆」というものだとは知りませんでした。

翌日、祖母に言われて吉島の親戚宅の様子を見に行きました。そこの伯父はビルマの戦場に行っていて、伯母と二人の従姉妹が家を守っていましたが、伯母は疎開先のもう一人の子に学費を送るため郵便局へ向かう途中に被爆してしまいました。私が様子を見に行った時、従姉妹が伯母の看病をしていました。伯母は夏服だったため、出ていたところの肌を火傷していました。家は倒壊、医者もなく、伯母は瓦礫のそばで娘に食用油を塗ってもらっていました。ここではどうにもならんと思い、私は急いで大八車を取りに戻り、その車に伯母を乗せて府中に連れ帰りました。自分の体には異常はありませんでしたので、私は伯母を助けるのに一生懸命でした。吉島周辺の家々は全壊していて、人は見あたらず、死人ばかりが目に映り、川は水を求めながら息絶えた人々で埋まっていました。焼け焦げて亡くなった人は男女の別もわからないむごたらしい状態でした。広島は七本の川が流れる豊かな土地でした。四十万の人々が生活していて、爆弾も落ちず運が良いとだれしも思っていました。それが、たった一個の原爆で二十万余の人々の命が奪われ、街は一瞬のうちに以前の姿を無くしてしまったのです。

私は二、三日後、吉島の親戚の手伝いをして、九日くらいに大分に帰ってきました。父親は私の姿を見て幽霊かと思ったそうです。大分では広島にものすごい新型爆弾が落とされたと噂されていたので、生きて帰った私を見て驚いたのも納得できました。家族に元気な様子を見てもらい、八月十五日に再び列車に揺られて広島に戻る途中、柳井付近で終戦を知りました。

広島に戻った私は、瓦礫の撤去などをしながら、九月の終わり頃には学校に行けるようになりましたが、マッカーサー指令で航空機科は廃止され、土木科に変わってしまいました。私の夢、飛行機への憧れは、ここで已むなく絶たれてしまいました。残念で残念でなりませんでしたが、あの当時はだれもが同じような苦しみの中におりました。私はそれでも立ち直り勉学に励みました。

昭和二十九年に大分に戻り電気屋を始めましたが、その後結核で二年ほど療養しました。三八年には喀血、左上葉を一部切除しましたが、手術後は現在まで健康に暮らしています。被爆したからこんな病気になったと考えたことはありません。必ず治る治せるの一念で今まで生きてきましたし、甘えた考えは遠い昔に置いてきたのです。結婚、妻の妊娠、子育てと、その時どきに不安がなかったわけではなく、医学書をたくさん読みあさった時期もありました。

アルバムを開くと当時を思い出すこともありますが、終戦の年、卒業してから五十年が経ってしまいました。学友の知らせなど届けば、また広島へ出かけて行きたいと思います。

*この文章は、大分県原爆被害者団体協議会が被爆50年(1995年)にあたり、体験を風化させないため、聞き書き出版した『いのちー21世紀への遺言』から、許可を得て転載しました。出版に当たり大分県生活協同組合連合会と大分県連合青年団が聞き書き調査に協力しています。