Home > 戦争と大分県 > 米軍資料の写真で見る大分市の空襲

 

米軍資料の写真で見る大分市の空襲

この文章と写真は第17回(2010年)平和のための戦争展で発行した「米軍資料の写真で見る大分市の空襲」から抜粋しました。写真・資料は奥住喜重・工藤洋三著『米軍資料大分空襲の記録』、『大分の空襲』(大分の空襲を記録する会)、『大分の戦争遺跡』(大分県文化財保存協議会)、『大分市史』などによるものです。

大分市に対する初空襲は1945年3月18日、以後連日のように大分市大分県かへの空襲が行われました。特に7月16日深夜から17日未明にかけての大空襲によって大分市の市街地は甚大な被害を被りました。

*写真をクリックすると大きくなります

@ 空襲を受ける前の大分市街地の空撮:大分川と裏川の三角州に大分海軍航空隊飛行場がありその東に第12海軍航空廠がり、大分川の西に大分歩兵第47連隊がある。
大分空襲に参加したB29は124機、焼夷弾M47は2万3963発、1機当たり平均搭載量は5.8トン。大分市が爆撃の目標となった理由「九州東北部にとっての大分の重要性は、行政・軍事役務・交通に要約できる。行政上は大分は九州の北東岸にある最大の都市で、県庁の所在地である。軍事的立場からは、市は新しい第12海軍航空補給廠を増強した。この補給廠は大分・佐伯・宇佐の3つの重要な飛行場を補給する。この市は陸軍第47歩兵連隊の補充部隊の所在地でもある。交通の見地からは、鉄道の操車場と工場は九州の東海岸沿いで小倉と都城の間にある最も重要な修理施設である。この操車場と工場は海岸沿いの幹線鉄道と2本の九州横断鉄道を維持している」(『大分空襲の記録』より)

A 空襲を受ける舞鶴橋付近:舞鶴橋と日豊線鉄橋付近胃集中的に爆弾が投下されている。県立商業学校も被弾したが、爆弾の多くが校庭に落ちたのでかろうじて校舎の全焼は免れた。女子師範は焼けた。舞鶴橋の東(写真では上、画面にはない)には大分海軍航空隊飛行場があり、爆撃をうけている。

B 空襲後の大分市:7月17日未明の空襲によって電車通の西側が集中的に焼き払われた。大分市の照準点は市の中心部から1200m以内、府内城の南西にあたっていた。
工藤報告書は、「大分は19門の重対空火器で守られていた。確認されている探照灯は1基だけであったが、2基から6基はあるかと思われる。探照灯の防衛力はきわめて貧弱であるから、不正確な砲火しか予想されなかった。3000mから3500mという計画高度は、中級火器を無効にするのに充分と信じられた。航路は他の対空火器を避けるように計画された」と述べている。
大分市の対空防衛は無力に等しかったのである。舞鶴橋西側の付け根には高射砲陣地が作られていたが、恐らく何ら効果を発揮しなかったと思われる。
米軍の『損害評価』によると市街地の建物密集地域5.30平方kmの26%が破壊された。その他大分鉄道操車場・工場・駅舎の20%も被害を受けた。

C トキハ百貨店屋上から西北を見る:右上に高崎山が霞んで見える。その手前に西大分の丘陵部が東西に連なる。この写真はトキハ百貨店屋上からほぼ正面に向かって撮った写真のようである。中央通(電車通)の西側、すなわちトキハの正面川の空襲の一番ひどかった地域なので、写真もほとんど焼き尽くされている。右上に煙突の見える県立病院はかろうじて焼け残った。当時の証言「大道の堀切峠から見る大分の空は火の海である。府内に通じる大道筋は、祭の夜の御神灯のように揺れている。それを避けて毘沙門川沿いた田室の踏切に出たが、その行く手には落城に似た光西寺が高々と火の粉をふらせて、西新町筋を遮断していた。また左に抜けて畦道伝いに県病から竹町をうかがうと、一丸の5階建てが炎々ともえさかって、火を町がすき間もなくはしっていた」(『大分の空襲』)

D トキハ百貨店屋上から西を見る:遠く西大分の丘陵部が見える。ここは戦後住宅団地として開発されたが、当時はミカン山であった。中央通(電車通)東側に位置したトキハ百貨店は昭和11年(1936)4月に鉄筋4階建てで落成した。竹町の一丸百貨店は昭和18年にトキハに統合され、軍事施設に転用されていた。トキハも3階のみが商品売り場で、1階は郵便局、2階は電信電話局として使用された。白く延びている道は現在の若草公園の南側の道である。
竹町の南、電車通の西側にあった西町・京町・中上市は商店も多く市の中心部であったが、この一帯が焼け野原になったことが分かる。電車通の東側も被害を受けたが、西側ほどではなかった。

E トキハ百貨店から東を見る:大分市中心部の東に位置する府内城跡には大分県庁があり、堀を挟んで西側に大分市役所(ほぼ現在の大分市役所の位置)があった。大分市役所の北側には公会堂(旧大分県立図書館があった場所)が位置していた。けんちょうは被害を受けた。爆撃の照準点は電車通と県庁南の東西の通(現昭和通)の交差する点であったが、佐多岬方面から大分市の東方向に侵入したB29は大分飛行場周辺から爆弾を投下したので照準点の手前の県庁付近も被害を受けた。爆撃の中心点は今の大分銀行本店付近にあったので、焼夷弾はそこから西側に流れ、中央通(電車通)の西側が大きな被害を受けた。写真ではトキハ百貨店の周囲の木造家屋も焼き払われたことが分かる。当時の大分(合同)新聞社は現在の大分銀行本店のある場所にあったが、これも一部消失した。かろうじて発行された合同新聞の7月18日の記事によれば「大分市内及びその付近各所に火災発生せるも、官民よく健闘し、17日4時30分ごろまでにおおむれ鎮火せり」と伝えるている。竹町にあった老舗の一丸百貨店は、軍事接収されていたが消失した。一方鉄筋コンクリート建てのトキハ百貨店は残った。

F トキハ百貨店から北西方向を見る:大工町の西北角にある大分市貯蓄銀行だけが残る。
1945年3月から同8月までの大分空襲の被害は、全半焼2877戸、全半壊299戸、と報告されている。7月16日から17日未明のくうしゅうでは、激しい火災が起きると市民は家の近くにあった小さな待避壕に逃げることを強いられた。しかし待避壕の入り口の木の骨組みが燃え始め、また一部の燃えた建物が壕の上に崩れ落ちた。したがって脱出することができず壕の中や崩れた家屋の中で死んだものも出た。
証言:「警報解除とともに長浜までかけつけた・・・その時はまだパチパチと燃え盛っていて家の下から助けを呼ぶ母娘の悲痛な声が聞こえてくるが、激しい火勢に警防団も手がつけられなかったという。朝の2時頃から夜明けまでの長い間、悲痛なさけびもしだいにかすれて、どうにか声のあるうちに掘り出したいというみんなの願いもむなしく、姉は二人の娘の上におおいかぶさってこと切れていて・・・」(『大分の空襲』)

G 大分貯蓄銀行:大分市貯蓄銀行は大工町の西北角にあり正面玄関は竹町の面していた。向いは一丸百貨店で、一丸も焼け落ちた。建物は2階建て、483uの総床面積をもっていた。10mの軒高があり、43pの暑さの耐火レンガの外壁で覆われていた。内部には金庫があり、その扉は火災でひどく歪んだが、その内部と内容物は被害を受けなかった。主要な建物の大部分は外壁を残して完全に燃え尽きた。外壁は構造的な損害を受けなかった。この建物に火災を起こしたのは直撃弾であった。入り口から内部の様子が少し見えるが、完全に破壊されているのが伺われる。

H 日本勧業銀行から西を見る:日本勧業銀行は電車通と堀川通の北西角にあった。現在のみずほ銀行である。勧業銀行の西南(堀川通の左側)は現在の都町周辺であるが一面焼け野原である。ここには魚町・茶屋町・白銀町・塗師町・今在家町・寺町があった。
証言:「魚町筋は・・・火の手があがっちょる。堀川に出ると、勧銀の巨像が火を被った花笠模様の大樹の下で、不思議に焼け残っているものの、根元を焼き払われた電柱が1本、配線を引きずり落として横倒しになっていた。見るところそこらも火の海で、建ったばかりの料亭も庭木もくすぶりをあげていた」(『大分の空襲』)

I 内部が燃えた大分銀行:ルネサンス様式の瀟洒な建物は大正2(1913)年二十三銀行の本店として建造され、当時は大分合同銀行の建物であった。この建物は空襲で火災を引き起こし、主要な建物は外壁のみ残してかん善意燃え尽きた。総床面積は13400uであった。内部には耐火性の柱が5本あり、これらの山型鋼は2階部分の骨組みの一部を支えていた。
現在も当時のままで残っている。大分合同銀行の外壁は空襲に耐えて今に残る貴重な戦争遺跡である。

J 焼けた大分県庁:壁の黒い汚れは迷彩のために付けたものである。県庁は大正10(1921)年に府内城跡に建てられ、全体は2階建てで、一部に地階を持っていた。二つの明かり取りの中庭があった。壁は全て耐火レンガ壁で、外壁と防火壁は43pの厚さ、外壁は1階の窓台まで花崗岩で上張りし、その上に化粧漆喰が塗られていた。この建物の南東部からの猛烈な火災が屋根の30%、2階の22%、1階の15%を完全に破壊し、隣接する空間の窓や内部の仕上げ材にも付加的な損害を与えた。全ての壁は構造的な破壊無しに立ったまま残った。防火扉を持つ防火壁は一方への火災を止めた。また、開口部のない内部の壁がもう一方への火災を止めた。この火災は建物の損害を受けた部分への直撃弾によってもたらされた。