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大分の空襲ー大分全市域が焼け野原にー

この文章は第1回(1994年)平和のための戦争展パンフレットに掲載したものです。

太平洋戦争の末期、1945(昭和20)年3月18日朝、航空基地のあった大分、宇佐、佐伯を中心に米艦載機群の攻撃を受けました。この初空襲から8月15日の終戦までの5ヶ月間、大分県下では連日米機の来襲に脅かされ、その回数は約250回。その内85回も直接攻撃を受けています。

なかでも、7月16日から翌17日未明にかけてのB29約30機による大分市の夜間空襲は県下では最大規模の攻撃であり6千発を上回る焼夷弾で、大分市の中心部は焦土と化し、主要な建物のほとんどが消失しました。

当時、大分駅に降り立った人たちは「大分駅に立って眺めると浜町の浜が見透せた」と一様につぶやいたものです。

この空襲だけで177人が焼死。27人が傷つき、3,366戸が全半焼し、13,851人が焼けだされたのです(当時大分市の人口は約8万人)。

そればかりでなく、わずか一発か数発の爆弾で多くの人命が奪われました。

大分海軍航空廠第三工場では、工員、学徒70人余が(4月21日)、また宇佐海軍航空隊では、予科練生が軍関係者320人が(同日)、さらに佐伯市では防空壕への直撃で28人が(4月26日)、そして保戸島では7月25日、艦載機による小学校への投弾で127人の児童、教師が犠牲になっています。また線路を走っている列車や駅(朝地)も狙われました。

地中の放置された不発弾は今になっても市民をおびやかしています。