Home > 日中15年戦争 > 南京大虐殺と私たち

 

南京大虐殺と私たち

侵略戦争の実態ー南京大虐殺と私たちー

この文章は第1回(1994年)平和のための戦争展パンフレットに掲載したものです。

1937年12月13日、日本軍は南京を占領しました。日本の各地では、旗行列、提灯行列などお祭り騒ぎをしましたが、日本軍はこの時、約30万人の中国人を虐殺していたのです。このことは「聖戦」として日本国民には秘密にされましたが、世界では「ナンキン・アトロシティ」としてその実態が伝えられ憤激を巻き起こしていました。私たち日本国民がこの事実を知ったのは、10年近くもたってからの「東京裁判」によってでした。

しかし、大分県出身の羽田内閣(*注)の永野元法務大臣のような「まぼろしの大虐殺」を主張する人もいますし、また日本の高校生の南京への修学旅行コースから「南京大虐殺記念館」をはずした例も報告されています。日本と中国とアジアの民衆と真の友好の絆を強めるためには、これらの大虐殺の実態に真正面から向かい合わなければなりません。

日本軍の暴挙を直接体験した劉栄興さん(当時23歳)は「心を刻む会・南京友好訪中団」の人々に次のように語っています。
「12月15日13時30分頃、約5000人の中国人が下関(現中山)埠頭に集められました。途中国民党の兵士と見なされた人は、針金で縛られて殺されたり、強姦されて殺された女性の死体が道をふさぐほどでした。埠頭に並ばされたとき、虐殺が始まると思い、私は揚子江に飛び込んだのです。その後1時間あまり『助けて』という叫び声の中で機銃掃射が続きました。15時頃、日本軍が引き上げましたが、約5000もの死体はガソリンをかけて焼かれ、カエルのような形になっていて、それは恐ろしい光景でした。」

最後に、1937年12月12日12時、南京城「中華門」の一角に日章旗をたて「一番乗り」したのは大分の47連隊であったことを記しておきます。

*注)羽田内閣:1994年4月28日〜1994年6月30日、自由民主党・日本共産党を除く与党7党1会派(日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、民主改革連合)と自民党を離党した議員により結成された3党(自由党、改革の会、新党みらい)が、新生党党首の羽田孜を国会で首相指名し発足した。