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直径10メートル、15s爆弾と焼夷弾二発がつり下げられ、当時としては画期的な気圧計と連動して重りを投下するなどして機能させるようにした、陸軍の決戦兵器だった。9000発の内、約10%がアメリカ本土へ到着したと記録されていますが、当初の計画は「細菌兵器」を搭載する予定だったようです。つまり「ペスト菌を持ったノミ」をばらまくことが想定されていたと言うし、もし計画通りなら「恐ろしいことになっていた」とみられています。これには例の「731部隊」も計画に関与していたとみられています。しかし、高度1万b上空は氷点下50度という超低温のため「ノミ」の死亡が懸念されて中止になり、代案として牛を死に追いやる牛疫ウイルスを投下して、アメリカ産業に大打撃を与え食糧供給を混乱させる狙いを持ったものだったようです。日本国内では実際に屋外で牛に感染させて実験は成功したと言われていますが、実行にまでは至れず戦況が悪化して出来なくなったようです。 風船は水素を充填した気球に爆弾を搭載し、ジェット気流(偏西風)に乗せてアメリカ本土を空爆するもので昭和19年(1944)に実用化された。翌春までに9,300発が福島県、茨城県、千葉県の海岸から放たれ太平洋を横断して推定約千発が到達した。装備は5s爆弾2発と焼夷弾だった。
計画の概要
制空権をほぼ完全に失った日本の窮余の一策として計画されたのがこの風船爆弾。
1944年11月から45年夏までの半年間でさらに5000発を造ることが厳命されて、高等女学校生徒がそれを担わされ、授業時間が丸ごと作業に充てられ12時間ごとの交代、深夜から明け方まで従事する日々だったようです。
一応、賃金は払われたようですが月40〜50円ほど。労働時間や仕事内容に見合ったものではなかった(現在に換算すると時給100円ほど)。その支払いも本人に渡るのではなく学校ごとにまとめて支払われたと言いますので「報酬を受け取った記憶はない」と、当時従事した人たちは言っている。銃後の女学生達がこのような苦痛を味わっている一方、男子学生は戦地へ送られた。
オレゴンの悲劇(風船爆弾)杉本純基(TBS報道局社会部)より
・1945年5月5日、米国オレゴン州の山林で樹木に引っかかった不発弾の風船爆弾が炸裂して、子どもを含む6人が犠牲になって米国では大きな問題になり、「報復」を合い言葉に日本への攻撃が加速することになったという。
風船が放たれたのは、千葉県一宮町、茨城県大津町(現北茨城市)、福島県勿来町(現いわき市)から、約9300個が米国に向けて放たれた。
・風船爆弾は和紙とコンニャクのりで貼りあわせた風船に、爆弾が吊り下げられていた。戦況が悪化した第二次世界大戦末期、追いつめられた当時の日本軍が最後の決戦兵器と位置づけ、終戦後、幻のように消えた兵器「風船爆弾」である。
・日本からアメリカに向かって吹く強い偏西風(ジェット気流)に乗せ、約9300個が放たれた。北アメリカ大陸に到達した数は推定1000個。事態を重く見たアメリカは日本に作戦失敗と思わせるため厳しい報道管制を敷いた。その結果、オレゴン州の小さな村で5人の子どもたちと牧師の妻(妊婦)が風船爆弾の爆発で死亡した。事件は伏せられたが情報は広がり、アメリカ本土で敵の攻撃を受けた国内唯一の犠牲者となって戦意高揚に繋がった。
・小倉の陸軍造兵廠は全国で唯一、風船爆弾の原紙作りから製造、組み立てまで一連の作業を行っていた地域だった。風船爆弾の評価はアメリカでも重視されていたと言われている。戦略的効果は少なかったが、ハンフォード原子力サイトへの被害を重視していたと思われている。それが小倉への原爆投下を決定させたようです。
・風船爆弾の大部分は学徒動員で集められた女学生たちによって製造された。コンニャク糊の蒸気が立ち込める工場の中で、昼夜分かたず12時間の立ち仕事。それがどんな兵器になるのかも知らされず、ただ言われるがまま作業を行った。覚せい剤を飲まされながらの過酷な労働だったとも言われている。
・記者の報告には、風船爆弾の作成に加わっていた自分が兵器の製造に関わったことが今でも心に重くのしかかり、多くを語りたがらない元女学生もいた。そんな中で話をしてくれた人々の貴重な証言は数々寄せられた。青春の真っただ中、純粋に国を想いただ懸命に兵器を作った元女学生たちの戦争とは何だったのか、と。
風船爆弾と原爆投下
関連性は掴めなかったがアメリカ本土への唯一の爆撃を受けたことを重視していたし、原爆製造施設に被弾したことで戦意に拍車がかかったと言われています。
原爆投下再考
原爆の日本投下は1944年9月に原爆完成以前にすでに決められていた。投下予定地は東京、京都、新潟、札幌、函館、小樽、大阪、名古屋などが予定されていたが、検討された地域は17カ所もあったようです。川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、福岡、小倉、下関、山口、熊本、佐世保など。ただし、空襲で破壊された地域を除くと決められて、最終的に広島は軍司令部の所在地、小倉が目的地にされたのは平坦地で原爆の効果をしっかり確かめるための「実験台」の条件が揃っていると見られていた。投下は決められていたが、ポツダム宣言の受諾で8月17日以降の投下は避けられたとみられている。受諾が遅れていたら3発目が投下されたかも知れない。
投下予定地〜東京はすでに大爆撃にさらされており効果が期待薄、京都は有力候補だったと見られていたが、スティムソン陸軍長官の提言(文化都市は避けたい)で外された。新潟は遠過ぎるとの理由、諸般の条件が検討されて広島、小倉に決められた
一発目は「リトルボーイ」、二発目は「ファットマン」、3発目は「トリニティ」あるいは「ギャグ」と命名されていました。
原爆開発本来の目的は、「ソビエト」対策と見られている。
5月8日、ドイツが降伏してヨーロッパ戦線は終結。ソビエトの勝利で欧州地域での発言力向上を危険視したアメリカは、大戦終結後の国際社会で優位に立つために「原爆の威力」をソビエトに見せつけ、軍事的優位を確保するための原爆投下だと考えらています。その実験場に日本が選ばれたということです。
この原爆投下について唯一抗議したのは中国共産系機関誌「新華日報」だけ〜日本軍国主義撲滅が目的であったとしても、無辜の人民を標的にしたのは虐殺であると。
投下理由の観点
アメリカでは戦争終結を早めるためと言われている。戦線が続けば米国側の死者数十万人が予想されるので早期終結のために投下が選択されたと言われている。だが、根源には「ソビエト」の対日参戦前(ドイツ降伏後3ヶ月が決定されていた)に降伏させる必要があるとの思惑があったため、日本側のポツダム宣言受諾(7月26日)延伸を理由に投下を決意したとみられている。しかし事実はポツダム宣言受諾勧告の前日の25日に「投下」を決定していた。また、科学的に異なるタイプの原爆(ウランとプルトニウム)の威力を試す意図や効果を見るためだったとみられている。
オレゴンへの風船爆弾の到着は1945年5月5日。原爆製造のマンハッタン計画の最終段階にあった。プルトニウムを生産していた米国のワシントン州内陸にあるコロンビア川河畔のハンフォード原子力サイトの電力網に風船爆弾が引っかかってショートさせ、火災は起きなったが原子炉を一時的な無電源状態にさせている。もっともこの無電源状態は、石炭火力発電などのバックアップシステムによって瞬時に復旧され、原子炉の緊急停止は起きず原爆製造のスケジュールに影響は出なかった。しかし、計画の速度が求められピッチに拍車がかかったという。その70日後、原爆実験は成功した(赤ん坊は生まれた)。
北米大陸へ到達した風船爆弾は、米国の調査報告によれば285球(約3%)となっているが、実際には10%(1000発弱)程度だろうという。
2014年にはカナダで風船爆弾の不発弾が見つかっている。
投下地の選定には恐るべき観点が定められていた。
原爆の威力をより効果的にするためには、「平坦地で人口の密集地」〜直径3マイル以上の広さを持つ都市地域を選ぶというものだった。身の毛がよだつ冷酷な視点だった。
〜ネット及び西島有厚「原爆はなぜ投下されたか」、鬼塚英昭「原爆の秘密」より